フォト徒然 ~その1~

二科調って何?

 以前ほどではありませんがこの言葉を聞く機会は少なくなった気がします。

どのような意味を持ち使われてきたのか、その背景を知りたくて少し調べてみました。

 

二科会写真部が1953年(昭和28年)美術団体二科会(第38回展)を機に、絵画の巨匠東郷青児の強い勧めで創設されたのはご承知の通りです。

当初からいわば秋山庄太郎、大竹省二などのサロン調と、林忠彦、土門拳などのリアリズム調とを融合させて、鑑賞性を高めていこうという方向性が期待され、全国的にも写真界の大きな話題となり展開となっていきました。それと同時に大きな期待感の中で、今後の在り方としても当時写真評論家などから次のように指摘されています。

 

「美術展の中の写真部という特殊な形態の中に、期待と不安の入り混じった感情を当事者も持ち、周囲にも抱かせながら早いものでもう10年余りになる。その期待と不安は全く解消されたわけではないが、ようやく二科写真部調といったものが一つのシルエットとなって会場をおおいつくし、不安もない代わりにすごいショックを受けるような画面にもぶつからないという、こじんまりした安定感に置き代えられつつあるようだ。…以下略。

 

このような論評の中にも写真部の大きな役割としての見方がまた一方にあったのも見逃せません。それは「サロ二ズムとリアリズムの併存の場を提供したことで、当時アマチュア写真界を風靡していたリアリズム写真運動で、排斥されたサロン調の写真にも二科展では決して一概に否定はされなかった。写真的にすぐれたサロ二ズムはさほど多くはなかったにしても、共存できる許容量の広さを示していたといえる。それは審査に当たる会員たちの多くが芸術至上とまでいかなくても、アートへの強い指向性を抱いていたことと無縁ではなかたであろう」

 

 このように二科会写真部の当時の置かれた世評を読みながら思うのは、創立会員の並々ならぬ苦労がしのばれ、当時をもってすでに多くの公募展応募者が押し寄せ、その勢いは全国に続々と支部の誕生を促したこと。また会員会友たちが増えアマチュアの大きな刺激をも喚起し、その後の二科隆盛へとつながって行った事が偲ばれます。

 

ごく最近まで二科の写真作品を前にする時、二科調という言葉を曖昧に感じながら、例えて「背景処理の単純化」や「主題を大きくみせる」「広角レンズの使用は難しい」などなど、意識しながらの傾向にありましたが、それと上述の二科草創期のアートとしての写真を世に展開した故秋山庄太郎、故大竹省二創立会員の影響?の存在の大きさも感じざるを得ません。

 

このように歴史的な流れを背景に、「二科調」なるものの言い回しは良くも悪くも使われてきたようですが、一方で「作品作りとしての二科調は特に意識せず」との話が、数年前二科の審査方針にも聞こえてきたのを思い起こします。

2016.9.17「はーもにか」第288号

 

フォト徒然 ~その2~

いい写真とは

 このフレーズは実はいろいろな人がいろいろの分野や目的で説明しています。

二科の写真として考えた時に思い出されるのは、以前佐々木隆二氏が例会の中で説明された

次の内容です。ご紹介しますと・・「いい写真とは」

 

・いい写真の判断は誰がするのか。見る人の判断、見る人のキャパシティー(受容力、能力)も大切な要素になる。見る目を持つこと。

 ・撮影者と同時に鑑賞者であること。

 ・良い悪い、好き嫌いの判断は見る人の引き出しの中に入っている経験値で決まる。

 ・自分の判断と他人の判断が違うのは当たり前、しかし社会に共通した記憶や心像に照らし合わせると、良い判断は生まれる。

 

これらの内容は基本的な定義と解釈しておりますが、本来「いい写真」とは一人一人が目的を持って写真を撮り、見た人がそれぞれの想いで長く記憶に留めておける。そんな思いを抱かせる写真ではないかと思います。よく写真は「記憶を記録する」と言われますが、撮影直後よりも少し時間を置いてから眺めると、記憶の変化が感じられて「いい写真」に繋がる場合があるのを経験されていると思います。

また、最初から「いい写真」の正解を決めつけないこととも言われます。写真は元々無意識の中で、自分のカラーや自分流をもっているものと言われます。それを信じましょう。

 

 それでも自分としての「いい写真」を撮りたい欲望はいつもあるものです。写真創作のため少なからず自分に課しているアレコレについて紹介してみます。

 

・写真に「強さ」を感じさせるため、主役を大きく扱い、光と影の効果を意識する。

 ・動きのある一瞬を表現するため、一連の動作のタイミングを予習して対応する。

 ・広角レンズの特性を利用して、大胆な遠近感や構図の角度を変化させる。

 ・撮影対象を決めた時には、事前に絵コンテ風にそのシーンを頭に入れるか作画してみる。

 ・舞台撮影時には照明効果を十分把握した上、動きの位置関係を予測する。

 ・イメージ効果を引き出すため過去のデータを参考にシャッタースピードを決める。

 ・人物には特に日中シンクロの使用により陰影の解消に努める。

 ・白とびに注意し常に露出はマイナス0.50.7EV程度に設定しておく。

 ・撮影は常にモノクロに適したイメージの写真を念頭に意識的に行う。

 

これらは撮影時に配慮している主な内容ですが、この他にもっと大切と思うのは、時間の許す限り写真展や作品集を見る習慣をつけることです。「写真を見る」から「写真を読む」へ作家の想いを共有できれば、更なる自分の「いい写真」へと進化するはずです。

 

2016.12「はーもにか」289号掲載

 

フォト徒然 ~その3~

写真はテーマで撮る

 写真を始めてから数年間を思い起こしてみると、とにかく手あたり次第気の向くままカメラを向けて、駄作の連発を繰り返していたことを思い出します。

ある先輩からも1ヶ月のフイルム数は何本か?と、度々聞かれ、数多く撮ることが写真上達への近道だと言われていました。それを守ってきたとは言い切れないですが、一方写歴を重ねてくるとごく自然にあるテーマで自分の想いを纏めてみたいと思うようになります。

 

テーマは簡単なようで中々探せない経験を、皆さんも持っていると思いますが、私の今迄のいくつかのテーマは、何故かちょっとした人との出会いからでした。そしてそのテーマを持つことにより写真の幅が広がり、ゆとりが持てるようになりました。少なからず興味を持ち継続する忍耐も必要です。そしてテーマで撮ることの意味やメリットは次のように考えています。

①長い期間(4~10年)撮ることで、視点の幅や奥深さかが見えて対象が絞られてくる。

 ②いわゆる誰でも撮れる見慣れた写真から、自分にしか撮れない写真を得ることになる。

 ③撮り貯めた多くの写真から、自信と余裕を持って作品を選べるようになる。

 ④写真展や作品集へのアプローチが容易となる。

 

具体的にどのようにテーマのきっかけを持ちある期間続けられたのか、私の経験した主な撮影テーマは下記です。岩手に単身赴任の5年間が自然風景撮影の原点になっています。

 

○2001.11~2006.11 5年間撮影  山形県上山市

   「柿農家(酒井宅)における収穫から集荷作業まで」

    当方の申し入れに快諾を得、秋の柿風景と一連の農作業を情報交換しながら完結。

○2002.12~2012.3 10年間撮影  白石市宮城蔵王キツネ村

   「冬キツネの生態」、 (期間中「子ギツネヘレン」映画撮影の子ギツネ含む)

   キツネ村社長夫妻及び飼育員のご厚意で主に冬の行動に特化し、夜間撮影も含め

貴重な生態写真を多数撮影。仙台ニコンギャラリーで写真展を開催。(キツネ村展示) 

二科展への作品応募で入選3回、会友作品で会友努力賞受賞。   

 ○2010.4~2016継続中 7年経過  

   「オリエンタルダンスパフォーマンス(ベリーとフラメンコ)」

    友人から紹介を受けほぼ年間を通したイベントスケジュールに参加。家族を含めた

交友でダンスのノウハウを吸収。写真展開催および作品集5冊発行。

    二科展会友3回作品出品、内1作品会友努力賞受賞。

 ○2004~2010 7年間撮影   仙台港、七ヶ浜 「サーファー競技」

    通院中の歯科衛生士がサーファーで、その撮影がきっかけで撮影をスタート。

    2008二科春季展に選抜出品

 ○2008~2011 4年間撮影   仙台泉弓道場、県弓道場 「高校女子弓道競技」

    高校選手の練習撮影から始め各種大会を中心に多数記録した。

2017.1「はーもにか」290号掲載

 

フォト徒然~その4~

組 写 真

  今まで幾度となく「組写真をどう組んだらいいのか」との質問を受けることがあります。

二科展では第56回展(2008年)で組写真部門が復活されました。当初からしばらくは

単写真と組写真の区別はなく推移してきました。今年の第65回展で10年目となります。

組写真のレベルも年々向上し、応募数の増加と共に素晴らしい作品を目にします。改めて

初心に帰り作品作りについて考えてみたいと思います。

 まずよく言われるのは単写真の集まりが組写真ではないということです。単写真は被写体が中心となりますが、組写真は当初の撮影段階から組写真としての意識を持ち、表現意図を明確にして写真の要素毎の条件を細かく決めて写真を構成し、狙ったイメージを伝えることが基本となります。つまり初めにテーマの設定ありきで撮影に臨むことです。

 

具体的に組写真作成に必要な内容を、以下に記しますので参考にしてください。

○組写真の基本  ①テーマ、コンセプトが明確に表現されていること。

         ②想像力を働かせた内容で、構成が優れていること。

         ③全体的な調和(アンサンブル)がとれていること。

 

○撮り方のヒント ①ストーリー性のあるもの・・・起承転結があるもの。

          (生活、農漁村、町風景等ルポルタージュ、フォトエッセイなど)

 ②連作、群写真など・・・必ずしも起承転結はいらない。

          (一つのテーマを様々なモチーフやイメージで構成する)

 

○撮影手法    ①同一の被写体で構成・・・一つの物、異なる物(動植物、風景等)

         ②心象的なイメージを重ねる・・・愛、慈しみ等に合った被写体等

         ③ある情景を季節や時間を変えて定点観測・・アングルの統一、フォーカスを変えない

         ④スポーツなど連続的な映像で構成・・限られた情景の中で一つのテーマを探す

○組み方     ①写真の選び方、並べる順序は慎重に。

         ②ポイントになる写真を1~2枚効果的に使う。

         ③視覚的なリズムを考えて、アップやロングショット等の組み合わせを

          考える(色彩、レンズの使い方などバランス良く)

 

○最後に     ①組写真といえども基本は1枚1枚で、1枚の表現力を高めることが

          大切であること。

         ②組写真をしっかり取り組むことで、将来の個展や写真集に繋がる。  

 如何でしたでしょうか?

二科展では3枚タテ構成です。過去の作品集などを参考に自分のイメージを膨らませ、作品を組む楽しさも味わってみてください。

                          2017.3「はーもにか」第291号掲載

 

フォト徒然 ~その5~

デジタルカメラの「一写入魂」

「静寂に包まれた初冬の早朝に霧が立ち込める牧野、目覚めた牛達を前に静かにシャッターを押す。」・・・私が以前盛岡に単身赴任中遠野市荒川高原で、ペンタックス6×7の中判カメラで撮影した懐かしい思い出のワンシーンが甦ります。その時思いを込めたカメラの操作は

・裏蓋を開けて220のブローニーフイルムをセット。巻き上げレバーでスタート「1」に。

 ・単焦点レンズで絞りとシャッタースピードを決め、焦点距離をセットした後にピント調整。

 ・露出計により何点かのスポット測光を行い、露出補正で正確性を期す。

この手順によりいわゆる「魂を込めた1枚を撮る」・・・期待感が高まっていきます。

まさにフイルムカメラの真骨頂を体感させてくれ、満足感に浸れたものです。更にはその場所の「空気感」「透明感」をも、映り込んで欲しいとの欲望にかられながらの撮影でした。

 さて、現在急速に進化したデジタルカメラには目を見張るものがあり、各種機能性や利便性など写真を撮り作品にする一連の手順が、パソコン環境と共に革命的とさえいえる時代となりました。

いつまでもフイルムカメラを懐かしんでいるわけにはいかない自分がいます。

勿論デジタルカメラでの「一写入魂」の雰囲気と味わいを求めても、到底中判カメラの比ではありません。未練を残しつつ心機一転撮影主体を大きく変換、デジタルカメラの進化に対応しなければとの思いを優先し、現在の撮影スタイルに切り替わりました。

 現在デジタル一眼の多くの機能の内、私が恩恵を受け積極的に活用している点について、簡単に紹介したいと思います。勿論撮影主体により内容は大きく異なりますが。・・・

(カメラ本体)

 ・上限ISO感度の大幅なアップ・・・640012500でもノイズが問題なく実用可能になった。

 ・AF性能の高度化・・・・グループエリアの捕捉は格段に向上し、動態撮影に強い味方となる。              

 ・液晶モニターによるバリアアングルの使用・・・・撮影の構図面において多様な対応ができる。

 ・静穏シャッターの使用・・・・室内や人物の撮影に以前から待望の機能で積極的に使用中。

・5軸手ぶれ補正などの効果・・・・1/10秒でも手持ち撮影が可能で三脚の使用が減った。

(現像・プリント)

 ・RAW現像を中心にPhotoShopCCの使用・・・・機能性が高く使用結果に満足している。

・カラーからのモノクロ化・・・単なる変換でなく色別調整によるモノクロの濃淡が高度に可能。

 ・フィルターの積極的活用・・・・アート指向の観点から適宜試用し作品化の幅が広がる。

 ・大型作品(A,B2など)が可能な機能・・・・ピクセルの補間を適用すると簡単に対応できる。

 

 最後にどのカメラもシャッタースピードの高速化が顕著です。使用目的が動態撮影であれば、

秒速8~12枚の連射はいとも簡単に可能となっているのですが、ある写真家の記事にうなずきました。それは連射で決定的な写真は撮れないということ。「どんなに数多くのシャッターを押したとしても、意思のないシャッターは何も意味をなさない」・・・・・「一写入魂」心しています 

笹川 義信  (2017年5月 「はーもにか」第292号掲載)

フォト徒然 ~その6~

モノクロ写真の魅力

 カラー全盛の時代となり、フイルム需要減、価格高騰、ラボの撤退等取り巻く環境は年々厳しくなっていますが、デジタル技術を駆使して、改めてモノクロ写真の魅力を簡単に手にできるようになったのは有り難いことです。

今さら何ですが色が白と黒しか存在しないモノクロ写真は、実際にそこに存在する色を見ている者が想像力で補完していかなくてはならない。勿論カラーに比べて色情報が無いので、見る人は不便と感じるかもしれないが、それよりも無限の色情報を人それぞれが思いめぐらして想像して楽しむ。これがモノクロ写真の魅力と考えたらどうでしょうか。

 よく言われるのが一つの画面をカラーとモノクロにして比較してみることの勧めです。

カラーは多くの情報量を与え、圧倒的に解りやすいこと。モノクロは時間をかけて何ぼの世界。

それは例えば風景であれば風の音、海の匂いなど、視覚以外の聴覚や嗅覚なども感じ取れることができること。そして究極は「どちらを長い時間見ていたいか?」となればやはりモノクロ写真でしょうか。それが想像力を喚起させなお奥深さを持つことに繋がるから。・・・・

 実際に私のモノクロ写真作成はおおよそ次のような過程をとっております。

基本的には通常カラーのRAWデータで撮影後、PhotoshopCCによる現像によりモノクロ変換を行います。この方法は白黒トーンの再現性を、各色情報別に調整できることです。

大事なことはモノクロ写真の階調はハーフトーン(白黒中間のグレー)の幅を広げ、表現の可能性を広げることです。これはカラーの「彩度」を「トーン」に置き換える考え方になります。

モノクロ変換は次の4つのステップです。

  ①「色調補正」→「白黒」にする。・・・・この状態でもよいがメリハリが乏しい。

  ②元カラーと対比して、各カラーチャンネル毎に明るさを(濃淡)を調整する。

  ③「トーンカーブ」で全体のコントラストや明るさを調整する。

  ④表現意図によりフィルター効果(赤外線ほか)や着色などを使用する。

 作品としてのモノクロ写真はフイルム時代を経験してきた自分にとっては、ごく自然にデジタル化に移行しても、技術的にフイルムを超える?形で如何に表現できるか。カラーにはない深みや奥深さ、現像過程の面白さ、写真展や写真集にも積極的に眼が向く自分がいます。

最近、学生や若者のモノクロへの関心が高まっているようです。先頃ある大学学友会の「フイルム展」では、異口同音に現像過程での映像が、徐々に浮かび上がる瞬間がたまらなく、改めてモノクロ写真の虜になったと目を輝かせて数人が熱く語ってくれました。

作品の内容は今一の感がありましたが、今後の活躍に大いに期待したいと激励してきました。

ちなみに二科本展ではモノクロ写真の応募が少なく、入選の狙い目としては有利と思いますが、

それを実証するにはかなりの努力が必要とすることも、肝に銘じておく必要があります。 

笹川 義信   (2017年7月 「はーもにか」第293号掲載)

フォト徒然~その7~

憧れの写真家との出会い

 私が写真を始めたきっかけはいとも簡単な動機からでした。定年の10年前から始め60歳のリタイア時点ではそこそこ1人前の腕前となり、以後一途に写真人生を全うする。振り返ればほぼ二科一辺倒で歩んできた現実があります。途中2002年ころ二科に飽き足らず、いわばリアリズム系写真に興味がわき、JPS展に応募し2回入選したことがあります。
この背景にはいずれ就職はマスコミ関係の仕事をやってみたい・・。夢は実現しませんでしたが、心のどこかで報道やドキュメンタリーへの憧れがあったように思います。
当時著名な写真家の中で、須田一成、細江英公、東松照明、森山大道などの写真を好んで見ていました。それでも実際に現場で撮影し作品として、或いは作品集として続けるほどではなく、いわば二科の厚い壁にぶつかった時の気分転換だったように思います。前述のJPS展の話に戻りますが、東京都美術館での祝賀会に参加した時、写真家で役員の田沼武能会長(当時)、細江英公、熊切圭介、齋藤康一の皆さんと親しく会話し、数枚の記念写真を相互に撮影し、それが今でも懐かしく私にとってはアルバムへの大切な写真となっています。中でも細江英公氏とはたまたま帰りに、美術館から上野公園の途中まで二人で歩きながらの親しく会話が続きました。心中感激で気持ちの高ぶりを抑えられませんでした。見知らぬ私にも丁寧に話を聞いてくれた、温厚で誠実な世界の写真家に感謝です。
この時以降「写真家細江英公」をもっと知りたくて、写真や資料をあさり始めたものです。
皆さんもご承知と思いますが、代表作に「鎌鼬(かまいたち)」(秋田の農村を舞台に舞踏家「土方巽」をモデルにした)、「薔薇刑」(三島由紀夫の裸体写真集)が知られていますが、私にとっては「鎌鼬」で稲架の上でパフォーマンスする土方巽の写真が強く印象に残ります。
写真集ではさらに1960-1970年代にかけて「抱擁」「おとこと女」などを発表、さらに2003
9月には英王立写真協会の記念式典で、「生涯にわたり写真芸術に多大な貢献をした写真家」として特別勲章を授与されています。国際的にも同時代の写真表現を代表する作品として位置づけられています。
自分の写真活動を今一度振り返ってみると、細江英公が東北山形県米沢市の出身で「人間」をモチーフとして、土方巽や大野一雄などの舞踏家を作品化しているなど、ここ数年カテゴリーは異なりますが、自分が今舞踏家をテーマとして撮影していることと、何か不思議な接点があるようにも感じています。写真ライフが人生の後半ともなると、「人間の奥深さ」を表現してみたいとの根源的な欲望が湧いてきます。
昨年10月に秋田県羽後町田代地区に写真集「鎌鼬」にちなんだ「鎌鼬記念館」が開館しました。「暗黒舞踏の創始者」として知られる土方巽は、ここで農民や子供たちを巻き込み、不思議なパフォーマンスを繰り広げました。その様子を写真家細江英公が撮影したことで世界的にヒットし、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞しました。

                         笹川 義信 2017.9 「はーもにか」第294号掲載

フォト徒然~その8

塩釜高校写真部の「地域学」

 2004年3月それまで寒風沢島にあった浦戸第一小学校は、在籍児童が3名のみとなり

閉校となった。この3名は桂島にある浦戸第二小学校へ籍を移ることになった。

当時、前年より浦戸諸島の自然や人々の暮らしを写真でスケッチしようと、春、夏、に

箱庭のような島々を船と徒歩で巡り、島の子供たちやお年寄りとのんびりと会話を交わしな

がらの撮影は、ゆったりと流れる時間と共にタイムスリップしたような気分だった。

浦戸第一小学校閉校を新聞で知り早速現地へ。閉講式のセレモニーをはじめ児童や校舎など

あたかも当事者になった様な、寂しい感覚になりながらの撮影だったことを思い出す。


この時、同じく高校生3~4人が慌ただしく撮影に当たっていた。一息ついたころ指導して

いた顧問の先生と話ができたが、後々交流が続いた塩釜高校写真部小川先生だった。

 その後、熱く語ってくれた話の一つが塩釜高校写真部「部展」だったのである。2年前か

ら仙台の藤崎一番町館で開催しているので、是非見てほしいとのことだった。

2005年7月第3回展開催中に初めて足を運んでみた。テーマコンセプトは「あなたの

知らない塩釜あります」で、300枚の白黒半切が圧倒的なスケールで展示されていたので

ある。

写真は塩釜神社の「花まつり」密着取材、浦戸第一小学校離任式、野々島花火大会、浦戸

郵便局員の配達など生活と暮らしが、高校生の視点から素直に新鮮に見る側に飛び込んでく

る。これも小川先生が力を入れて話してくれた「地域学」そのものなのかと考えさせられた。

「部展は」更に第4回展「塩釜本町商店街の人々」、「船通学」、「東松島創る村」「離任

式」、第5回展は「総勢63人大郷の祭り」、「島の卒業式」、「若人が舞う塩釜神楽」と

続き、第6回展では集大成の「塩釜の祭り(帆手祭、花祭り、みなと祭り)」と続いたので

ある。

これら一連のドキュメンタリーな写真に取り組む写真部員の原点は、一途に自分たちの住ん

でいる町と人々を中心に、生活と暮らしを気負うことなく、日常を淡々と捉えていることだ

った。先生との話の中で自分の撮影スタンスを考えた時、いつも無意識に「作品作り」を意

識していたが、ある時“高校生の写真甲子園には参加しないのか”と問いかけてみた。

答えは“全く関心がない”だった。考えてみれば至極当然のことで、先にも述べた「地域学

が活動の原点であり、いわばテーマを決めれば部員全員がそれに向けて、地道に纏めてい

く作業となるのである。

 「写真で表現する」とはどういうことなのか。テーマ性の有無、アプローチの方法と取り

纏め、集団と個人、アートかドキュメンタリーか・・・。先生の話を聞きながら頭の中では

堂々巡りし、答えの出ないままもがいている自分がそこにいたのです。

その後、先生は震災を経て多賀城高校へ転向され、蒲生干潟の「緑の防潮堤」再生について

も精力的に取り組み、中高校生による提案活動を行うなど、地域活性化に熱意をもって取り

組まれたと聞いています。

                    笹川 義信 2017.11 「はーもにか」第295

フォト徒然~その9~                        

幻のニカーブ      

 突然のタイトルで失礼します。二カーブの意味をご存知の方は恐らく数少ないのではないかと思います。これはイスラム女性がイスラム教の聖典に基づいて、女性の顔と手以外は隠し、近親者以外は目立たないように、また神アッラーは男性の視線に覆いをすること、併せて女性の美や飾りも夫や父親以外には目立たないように命じています。

話はさかのぼりますが、私が会社を定年後待ちに待った海外撮影の第一番に選んだのが、長年の憧れでもあったモロッコで、表題の「二カーブ」をまとった女性を撮ることでした。特に事前調査もせず勇んで「とっておきの1枚」を撮ろうと、ルンルン気分で出かけたものです。当時様々なメディアや写真集などに黒い布の「二カーブ(またはブルカ)」で覆ったイスラム女性特有の彫の深い魅惑的な女性の大きな瞳と、眼以外を隠すことによってより増幅される神秘性に独特な美を感じたものです。
現地に着いて撮影の機会を探しながら、望遠レンズを装着し時には同行者と離れ懸命に撮影機会を探しますが、全くというほど女性を見かけません。時々老婆や子供と出会いますが、殆ど男性ばかりの異様な街の状況が続きました。現地ガイドに説明を求めると、女性たちは基本的に家の中での生活が大半で、カメラを向けることには「魂を抜かれる」との意識が強く、撮影はできないと強い口調で言われ大いに落胆し、その後の旅行がつまらなく自分の不勉強を大いに悔いたものです。

帰国後様々な人たちの話で教えられたこと・・・。それは主に東京の撮影旅行グループ等に参加し、現地で撮影料を払い所謂モデル撮影会的な形をとらないと無理とのことでした。

その後時間を経るほど「他人と同じモチーフで満足しようするのは自分のスタイルではない」

意識が増幅し、自然と当初抱いた熱が冷めていくのを感じていました。いわゆる「幻の二カーブ」となってしまった訳です。その後同じアラブ圏のチュニジアへも撮影に行きましたが、女性たちの衣装は殆どが顔を覆さない「ヒジャブ(薄い布で髪を覆う)」で、モロッコとは全く異なる開放的な女性たちが、街中いたる所でカメラ視線に応じてくれたことが懐かしく思い起こします。

考えてみれば日本にも主に山形県庄内地方から秋田県にかけて、女性が農作業で顔に着用する「はんこたんな」(袢衣手綱)があります。特に虫除けや日焼け止めさらには稲刈り時の顔への傷防止、防寒対策に使用されてきて、現在農作業の変化などもあり細々と続いていますが、先の二カーブとは必要性は全く異なりますが、いずれは消えていく風習なのではと思います。

私の一般論ですが人物写真の特異性の一つに、その人の背中(背景)や、見えないことによる想像力などによって、被写体人物への想い、印象度がより大きくなる効果が期待できると思っています。

                  笹川 義信 2018.1「はーもにか」第296号掲載

フォト徒然~その10~

T君の写真展

 親友のT君とは人生を共に歩んできた、私にとっては掛け替えのない友人です。
彼とは同じ会社に同期入社し、社内でも職場は違うものの共通の部門で、苦楽を共にして歩んできた仲間でもあります。定年を境に現役当時以上に交友が年々深まり、恐らく私にとっては生涯唯一何でも話の出来る親友となるでしょう。
彼の趣味は写真をはじめ実に多岐にわたり、その数は誰もが驚くほどで、知る限りを数えると金属オブジェ制作、皮加工製品制作などは玄人で、家の敷地内に工房を持ち、更に多芸でヴァイオリンやトランペットを奏で、文章力も優れエッセイなども多数で、今迄10数冊もプレゼントされました。私も彼に触発されいずれ書いてみようと思うようになったものです.

写真展の話に戻りますが、私の二科会での写真活動や芸術協会の活動に、彼なりに関心を寄せてくれました。彼も既に私よりも早くから、カメラや写真についてベテランの域にあることは承知しておりましたが、2011年7月に初の写真展をやるとの話があり、実施方法を是非教えてほしいとのことでした。額装から展示方法など一通り説明後開催に至りました。写真展は「イタリア街風景」で、2010年4月彼がヨーロッパ旅行中に発生したアイスランドの火山爆発によって、灰煙が航空運航の大混乱となり、ミラノでの1週間帰国が足止めとなりました。彼は願ってもないチャンスと受け止め、ミラノの市街を日々撮りまくったとのことでした。奥様同伴でしたがそれぞれ別行動で大いに楽しんだそうです。
撮影カメラは私も所有するRICOHGR-DIGITALⅢで、広角28ミリでの全てがスナップショットの全紙サイズで展示されていました。今迄数々の写真展を見てきましたが、何かと異国の都市風景や人々を淡々と撮る写真が多い中、全てと言っていいほど人の表情と、パフォーマンスを中心に、広角領域に大胆に近づき、スローシャッターを駆使し、隠しカメラも使ってのチャンスを逃さない動感表現に脱帽してしまいました 。

いつも写真に関しては控えめな感じで、お互いに主張し合うことも無かったのですが、これを契機に彼の「写真だからこそ表現できる」または「写真でなければ表現できない」ことを実践している姿に、改めて深く感じ入ったものです。やはり先に述べた彼の多彩な才能は、写真でも如何なく発揮されていたのです。

その後、2012年、2013年と立て続けに「日本の街風景」写真展を開催し、燃え尽きた?と感じさせるほど俺流を貫き通し、彼曰く「もう写真はこれでお仕舞い!」と、いともあっさりと私に宣言したのでした。この潔さは一体どこから何で来るのだろう?と。当時は深く追求しないまま今日に至りますが、ポツンと「40枚の全紙額装の処分を教えて」との問いかけに、「どこか施設にでも寄付したら」とのやり取りをしたのが少し心残りです。
昨年暮れに仙台市内のホテルで久しぶりに会い、仲間の弔い話に終始しました。

支部長 笹川 義信 2018.3 「はーもにか」297号


フォト徒然~その11~

女子弓道はポートレート

 古い話で恐縮ですが平成12年7月に宮城国体が開催されました。当時国体競技のボランティアカメラマンとして、10数名の宮城支部員が、各競技を分担して撮影にあたり、記録写真としての貴重な成果を残しました。私は馬術、レスリング、体操を担当しましたが、いずれも初めての体験でしたので、試合展開や撮影のタイミングなど試行錯誤の連続で、満足できる写真は殆ど無かったように思います。この貴重な体験以降、自然とスポーツ写真を撮影したいとの思いが強くなり、著名な写真家のスポーツ写真集や、県内で実施される各種スポーツをその都度チェックし、当時の撮影の大半をスポーツ会場に向かうようになり、夢中で撮影していたように思います
 最初は高校ラグビーで、元々サッカーよりはラグビー大好き人間で、当時2強の仙台育英と、石巻工業を徹底して追いかけるとともに、当時のプロ写真家の写真集を参考に名場面を探求しました。
これ以降プロサーフィン、トライアスロン、マスターズ陸上、スポーツダンス、剣道、弓道、少林寺拳法と、いずれの競技もほぼ3~5年位の期間、同時並行で繰り返し撮影を続けていました。この間、長く興味を持って続いたのが弓道で、中でも高校女子弓道に多くの撮影を費やしました。その理由は極めて単純で、弓道が後に記載の高い指標「真・善・美」に基づく、若い女子高校生の弓道に懸ける情熱が、魅力ある被写体として私を虜にしたからです。
全日本弓道連盟が「高い指標」の意味を次のように説明しています。「真」の弓は偽らない。正射必中弓を射ることは、正しい射法を目指す「真」の探求であること。「善」とは弓の世界に敵はいない。いるとしたら揺らぎ、動揺する自分の心が敵となる。礼節を大切に相手を慈しむことこそ基本精神である。「美」は「真」の形と「善」の心が一体となった時、理想的な美しい弓が表現される。
まさに「写真」を「写心」として如何に捉えるか。課題を負いながら向き合う自分がいました。撮影場所は主に仙台市武道館・泉弓道場で、高校女子県大会や国体競技県大会を中心に、射場内での撮影に特別な許可をいただき、比較的自由に行動ができました。これも泉弓道会での撮影時から当時の渡辺錬士五段、境先生との交友により、お声がけいただいた賜物と感謝しています。そして彼女達の一連の弓道作法とその表情を中心に、あらゆる角度からの撮影が可能となりました。ここで弓道をスポーツ写真として表現することは勿論ですが、自分なりに数々の選手の表情や、競技作法等から読み取れたのは、前述の「高い指標」を理由づける選手たちの、いわばポートレートではないのか?ということです。
そして私なりの勝手な理由付けは次のように考えています。

 ① 多くの選手の中から自然と美顔の選手にカメラを向けている自分がいる。

 ② 一連の動作の中では、的を射る見開く眼の力強さは圧倒的に美しい。

 ③ 正装の袴姿と白足袋での構え、静寂の中弓を弾き矢を放つ瞬間までの集中力とその作法。

 ④ 射場、射庭、的場全てが写真的要素(脇役)となり、組み合わせが多彩。

今迄大部分のスポーツ写真で被写体を狙うのは、力強さ・激しさ・迫力など、動的瞬間を撮影することで満足していましたが、その後女子弓道=ポートレートは私の新たなモチーフとなりました。

支部長 笹川 義信 2018.5 「はーもにか」298号



フォト徒然~その12~

昭和の学校

 岩手県花巻市大沢温泉近くに、廃校となった花巻市立前田小学校の中に、「昭和の学校」があることを昨年初めて知り訪れました。いわゆる廃校の中に昭和3040年代の商店街を作り、懐かしい品々を約10万点も展示している「山の駅 昭和の学校」として、平成1411月にオープンしたそうです。既に皆さんの中には訪れた方もいるとは思いますが、私にとっても終戦後多感な少年時代を過ごし、3種の神器に目を見張り、川上巨人や栃錦,若乃花に熱狂した、昭和真っ只中で生きてきた人間として、懐かしさを求め大きな期待を持って訪れた一人です。まだ行かれてない方には、是非とも現地で体感して頂きたく、ご紹介を込めてペンをとりました。
 なぜ「昭和の学校」は廃校の中につくられたのか? 誰もが初めに抱く疑問ですが、その答えは入口を入った所で、「昭和の学校へようこそ」の挨拶文で直ぐにわかりました。要約しますと、

・この施設は遊休施設の有効利用と、活性化を目的に作った民間施設であること。

・昭和をテーマに古き良き時代を再現し、イメージモデルは昭和30年当時の花巻市商店街。

・毎日が花巻祭りの様な賑わいで、もう一度かっての様な商店街の再生を願っていること。

・戦後の昭和は日本有史最も平和で希望溢れた時代だった。もう一度当時を思い興すことで、新たな希望・目標が見えてきそうであること。

・物も無く皆が貧しかった戦後の昭和。しかし今以上に希望に溢れ「感謝と感動」に満ちていた。

また、当学校の校長先生は照井 正勝さんで、他に女性スタッフと二人だけで運営されています。照井さんは元々学校の先生ではなく、いくつもの仕事をしてきた中で、いつのころからか地元花巻の地域起こしをしたいと思うようになり、空き施設の有効活用を思い立ち、20年以上かけ一人でコツコツと収集を続け、実際には20万点のコレクションがあるそうです。
 ここで学校の中での驚くべき20商店街の再現と、膨大な数の展示物が所狭しと並べられており、全てを見て歩くにはまる1日では足りないのではと思ってしまうほどです。
店は①文房具屋、②タバコ屋、③電気屋、④駄菓子屋、⑤床屋、⑥薬屋、⑦瀬戸物屋、⑧服屋,⑨パーマ屋、⑩時計屋、⑪本屋、⑫プラモデル屋、⑬靴屋、⑭おもちゃ屋、⑮レコード屋、⑯カメラ屋、⑰履物屋、⑱ラーメン屋、⑲お茶屋、⑳映画館等があり、さらに壁や廊下などにも看板や旗、ポスターなど、全てが必ず見覚えのある懐かしい品々であり、まさに耀ける昭和へのタイムスリップに一挙に突入し、当時の遊びや衣食住の生活にまでどっぷりと浸ることができるのです。そして当時の物価や初任給も明示されており、現代の貨幣価値との興味深い比較が可能となっています。 遠く懐かしい時代の再現を、ここにある物全てを記録しカメラに収めようと、その気持ちが働くのも至極当然のこと。私もしかりで時間が経つのも忘れ、夢中で撮り続けていました。撮り終えると何か気持ちの上で安堵感と満足感が広がり、写真の11枚が大切な宝物の様に愛おしく、いつまでもそこに浸っていたい、心地よい時間の流れがありました。
もし、まだ行かれてない方は一度「昭和の学校」へ足を運んでみてください。おすすめです!。

支部長 笹川 義信 2018.7 「はーもにか」299号


フォト徒然~その13~                    

「ナショジオ」の魅力

 自分の写真活動を振り返ってみる時、常に頭から離れなかったもの・・。大きな刺激を受けていたのが「ナショナルジオグラフィック」(略してナショジオ)という米国発の月間雑誌の存在でした。この雑誌は世界36カ国で発行されており、180カ国以上で850万人が定期購読しているというスーパー雑誌で、日本語版では8万部となっています。
掲載内容は地理学、人類学、自然・環境学、歴史、文化、写真などで、特に写真では最高品質の記録写真を掲載し、掲載基準は極めて厳格で、プロカメラマンの撮影してきた大量の写真の内、紙面に載るのは1万枚から1~2枚といわれています。また国際的な写真コンテストも開催しており、雑誌に掲載された写真は既に写真集として出版されています。中でも圧巻なのは2012年8月に発刊された「50グレイテストフォトグラフ・傑作写真に秘められた物語」で、衝撃の写真と写真家の秘話に、今までに無いほどの感動とショックを受けたことを思い興しています。
ここでは最も大きな感銘を受けた1枚の写真について紹介します。(著作権から写真は掲載できませんが購入は1,000円で可能です)
アフガニスタン難民キャンプで撮影した少女の写真 (撮影:スティーブ・マッカリー/1984年)  その写真への主題は「印象的なまなざしと粗末な服が、アフガニスタンからパキスタンへと  逃れた少女の窮状を物語る」とコメントされている。そして「その瞳からは彼女を苦しめて   いるもの、何かそこには似つかわしくないものを感じます」とも。
  さらにその写真はナショジオの歴史の中でも、大反響を巻き起こす1枚となっていること。  撮影者のマッカリーは次のように説明している。
 ~誰もがこの少女に惹きつけられるのは、「絶望の中にも美しさがあるからだ。この少女は  あきらかに貧しい。顔は汚れ服はボロボロ。それでも彼女にはある種の尊厳と自信、不屈の  精神が見えます。その瞳からは彼女を苦しめているもの、何かそこには似つかわしくない物を  感じます。この少女はその若さで見るべき以上のものを見たのでしょう。自分の村が爆撃され  親族が殺され2週間かけて山々を越えて難民キャンプまで歩いてきたのです~
  17年後マッカリーは再びアフガニスタンを訪れ、あの少女が生きているかを確かめ、名前を   確認する行動をとっている。結果その少女「シャーバート・グーラー」を探しあてた。
自分にとって「ナショジオ」は世界のプロ写真家のあらゆるジャンルの写真が見れること、また、2006年に発刊された「プロの撮り方・モノクロ写真=リチャード・オルセ二ウス」は、今でも私のバイブル的存在で、物や人や場所の本質的な捉え方、光の捉え方による清潔な美しさ・奥深さなど表現に迷った時など、忘れがちな基本を思い起こさせてくれます。
最後になりますが、「ナショナルジオグラフィック」は「地球の今」を世界有数の写真家が撮る美しく迫力ある写真と、徹底した取材による記事で、「大自然の驚異」「生き物たちの不思議」など今迄見たことのない「驚きと発見」が魅力です。関心ある方は是非ご一読を。

支部長 笹川 義信 2018.9 「はーもにか」300


フォト徒然~その14~

北キツネと共に10年

 思えば自分ながらよくも長く続いたものです。2001年1月雪の降る宮城蔵王キツネ村を始めて訪れた時から2010年までの10年間。当時はまだ訪れる人も少なく、特に真冬でもあり入口に近づいても深閑として、当然休園ではと思っていたら中に人がいる気配。声をかけたら若い女性が現れ、「どうぞお入りください」とのこと。この時からキツネ村通いが始まりました。
写真撮影も今まで動物写真は全くの未経験で、ましてや目の前の多数のキツネ達の、何をどう撮るかさえも解らず模索の連続でしたが、冬の雪に映える毛並みの美しさや、絶え間なく見せる独特の生態にたちまち魅了され、絶好の被写体を「何とか物にしよう」と心に誓ったのでした。
当時からキツネ村は100頭前後の園内放し飼いで一生をここで過ごします。周囲はフェンスで囲まれ餌場や通路・建物などの人工物も有り、撮影に当たってはこれらを背景に入れない様、あたかも大自然の中のキツネに見せるよう配慮したものです。そのせいか必ずと言っていいほど「北海道で撮りましたか?」の声を作品展等で質問を受け、「いや・まあ・・」の曖昧返事で多少後めたさを感じた事もほろ苦い思い出となっています。
撮影にあたってはいつもスタッフの女性Mさん、飼育に精通の男性Sさんに多くの助言と協力をいただき、特に冬の2~3月に活発になる繁殖行動に、多くの決定的瞬間の撮影が出来たことでした。その苦労が報われたのが第57回二科展会友努力賞の受賞となったことです。また2004年11月に仙台ニコンギャラリーで「森のキツネ達」の写真展を開催し、社長夫妻も来仙し大変喜んでもらえたことでした。その後、写真展で展示した写真25枚をキツネ村に寄贈し、園内に展示出来たことはとても光栄でした。
キツネの撮影に当たり特に留意したことは、11回の餌を与える時間以外は、昼間殆どが寝ているか時々動き回る程度なので、撮影にならないことが多々あることです。このため餌を有効に使い
キツネに演出してもらうことにしました。例えば餌を見せると必ず数頭が駆け寄り飛び付こうとしますが、場所を選び高く放ると0.5mは軽くジャンプしその瞬間を狙うのです。また餌の取り合いや、オスとメスの口を互に開ける威嚇行動など、何度も通う内に被写体になるキツネが特定でき、面白いほど私の期待に応えてくれました。お互い顔見知り同志の様な撮影となったのです。
現在になっても当時の様々な出来事が脳裏を駆け巡ります。2006年には当時「子ぎつねヘレン」の映画に生後数ヶ月のリスター君が主役として出演したこと、またテレビ「天才志村動物園」の現地取材と放映、その都度社長夫妻やMさんと共に喜び合ったことが思い出されます。一方で2010年代に入ってからの動画投稿サイトやSNS等により写真・動画が共有されはじめ、「モフモフ」な動物たちと触れ合いたいなど、国内外の観光客が訪れる施設へと大きく変化し始めました。東日本大震災後キツネ村へは遠ざかっていましたが、2年前久しぶりに訪れた際、施設の拡充と来園者数の余りにも多い様変わりに、驚嘆してしまった自分がいました。一方YouTube動画にも火がつき、2016年には10万人の内1万人が外国人の来園者を記録し、世界の人気観光施設となりました。

支部長 笹川 義信 2018.11 「はーもにか」301号

フォト徒然~その15~                                                                            

仙臺伝統裸参り保存会

 例年114日に私は仙台市大崎八幡宮へのどんと祭に足を運び、新たな気持ちを込めて、家内安全、目標の正願成就を祈願し、御神火への松焚を行うのが慣例となっています。
2年前どんと祭と併せて行われる裸参りについて、ふと目にしたチラシに興味が湧きました。
それは「裸参り」お話しと見学会・・・座学「裸参りはいつから始まったのですか?」とのタイトルで、どんと祭当日の14日に、話をきいて、道具を手に取って、見学をして、「気持ちだけでも「裸参り」のサブタイトルも、すっかりその気にさせてくれました。裸参りにはいつもカメラを向けていますが、年々参加する各企業や団体の隊列・行進での若者の立ち居振る舞いが、年々何となく神事としての厳かさ、規律などに物足りなさを感じており、伝統の意味を知りたかったのです。当日の会場は大崎八幡宮に近い八幡「杜の館」で、参加者は20名程で後から分かったのですが、何れも始めて隊列に参加する若い人達でした。保存会谷徳行会長のユーモアと饒舌にすっかり魅了されてしまい、楽しい時間を過ごしました。座学の内容の一部を下記に紹介します。
「裸参り」のルーツは、東北南部地方の農家の神事から、その目的は1年の農作業の安全と豊作を祈願していた。その農家の人々が農閑期に仙台の酒蔵へ、泊りがけの仕事となる「杜氏」を請け負っていた。これが南部杜氏で、この仕事により農家の神事から酒蔵の年中行事と変わっていった。その神事の目的も酒造りの1年の安全と芳醸の祈願と変わった。古くから仙台八幡町に残る「天賞酒造」も「裸参り」をしていた酒蔵である。
「仙臺伝統裸参り保存会」は天賞酒造が2005年に川崎町に移転してから、「天賞酒造」での「裸参り」継続が困難となり、当時からの参加者と市民有志により発足し現在約60名です。構成は参加歴2530年以上10名、1525年以上15名、3年以下が約40名です。そしてこの保存会は「伝統的裸参り」の様式の継承と、その由来・装いなど、伝統文化の探求と伝承を目的としている。また、その様式は30年以上にわたり指導をいただいた天賞酒造の様式を基本としている。
そして会員の心得は「保存会の趣旨に賛同し自主的参加意思の強い者であることと、仙台の伝統的裸参りの意義と様式を継承するものであること」としている。
その後、隊列の内容と意味(先導、高張李提灯、一番鉦、役職、付き人等)、持ち物(梵天、幣束祈願板、供物等)、祈願文(万邦和楽・・あらゆる国が和やかな世界の平和を願う)について説明があり、公園に移動して隊列の練習時間を設けて行進が実施され、繰り返し指導が行われたのです。この後神事の禊である氷の水垢離を行い、室内での裸装束の準備が賑やかに進行します。狭い室内での写真撮影は邪魔にならない範囲で自由で、私にとっては貴重な機会となったのです。そして裸参り木戸くぐり、総勢60名隊列のお見送りへと続きます。この間ほぼ5時間、時間の経過とともに裸参りの様式を主に、伝統行事を絶やさず後世に繋げようとする保存会の想いと熱意・・。それが街頭へ隊列を組み行進を始めた瞬間、鉦の挙げ方と神威の音、蠟燭提灯を脇へ持つ姿勢、荘厳さをも感じさせる乱れぬ隊列に、気持ちの高ぶりと震えを覚えたのです。参拝後「杜の館」帰還までが正統な隊列であり、今迄保存会が無ければ伝統的継承が皆無という状況も危惧され、保存会の指導により、最近も裸参りの本質に帰ろうとする団体も少しずつ増えているそうです。

支部長 笹川 義信 2019. 1 「はーもにか」第302

フォト徒然~その16~                    

ベリーダンスとの出会い  

 それはステージ上を縦横に躍動感溢れるパフォーマンスを展開する、一人の若いダンサーに魅了された瞬間でした。20104月勾当台公園でのダンスイベントで、出演者全てがグループ構成のプログラムの中、唯一のソロで衆目一致の桁違いの上手さで踊りきった姿でした。それがベリーダンサー「ターキッシュ・Gul(ギュル)」堀内和子さんとの最初の出会いであり、現在までベリーダンスの撮影が続くことになります。
彼女とは当時通い始めたジムのインストラクターとして、またダンス教室で指導していること、更にラッキーだったのは、家内の友人の娘さんだったことです。これを機会に私を知って貰うべく、可能な限り機会を生かし「ダンスの美しさや魅力を写真に表現したい」との思いを伝え続けました。一方、プロでもある彼女には既に多くの撮影経歴があって当然と、写真撮影に少なからず遠慮していましたが、予想外に撮影の機会は少なく、これからは彼女への写真を提供して世間に広めたい、是非協力したいとの思いを伝え、その後の写真を続けることで信頼感へと繋がっていきました。 撮影にあたりベリーダンスの歴史と、踊りの構成や音楽、リズムや動きなど可能な限りを理解すること、併せてダンスに関する写真集や説明書等を参考に、動きの予測など次第に理解できる様になり、何とか二科展に出品できる作品になるまで3年近い月日が経っていました。この間幸いにも第61回二科展での会友努力賞の受賞となりました。これでようやく彼女への責任が果たせたとの思いもあり、東京六本木の新国立美術館に誘ったところ、是非行きたいとの話から思い出に残る1日となりました。その後、作品集の発刊4冊、写真展の開催(2013)が成果となりました。
言うまでもなくベリーダンスは現在のトルコ共和国やエジプトなど中東諸国発祥で、繁栄と豊穣の祈りを込めて躍り継がれてきました。また、トルコのロマの人々には、歌と踊りで逆境を乗り越えようというロマ民族の思想が反映されています。特にターキッシュ・ベリーダンスの特徴として、アップテンポで腰を自在に動かす独特なヒップワークと、フィンガーシンバル(ジル)を叩きながら踊るダイナミックな動きが特徴であり、民族楽器独特の曲や歌と共に、その奥深さに大きな魅力を感じさせてくれます。
 最後になりますが、ターキッシュGulさんの主な経歴を紹介しますと、2002年よりべリ-ダンスを学び始め、仙台・福島・東京のスクールに通い、「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」、「青葉祭り」、「仙台フィル打楽器奏者T氏とのコラボ」4回の他、ホテル・レストランショー等に多数出演。トルコ特有のリズム「カルシラマ」に合わせて、エネルギッシュ且つ即興の動きと、また、アラブの音楽以外にも雅楽・クラシック・胡弓・三味線等、ジャンルを超えインスピレーションを受けた曲でベリーダンスを演出。独自の工夫された衣装とオリエンタルな要素も取り入れ、エネルギッシュに舞います。以前スクール時代の仲間から「踊りがダイナミックで、トルコのスタイルに近い」と指摘を受けたとのこと。2006年に来仙したイスタンブール在住のベリーダンサー「ライフェ・チャンカヤ」氏より、「ギュル」(トルコ語の薔薇)の名前を戴き後にダンサー名に使用。
いつか本場トルコで踊りたいとの夢を膨らませています。

支部長 笹川 義信 2019. 3 「はーもにか」第303号

 


フォト徒然 ~その17~            

ガンジス川での不覚

 長年の写真撮影も振り返って見れば、予め入念に計画を立て、撮るべきチャンスを逃さず、編集を楽しみながら、気に入った写真に作品としての夢を託す。この繰り返しでほぼ順調に歩いてきた感があります。しかしながら今回の話題は初歩的なミスで、計画の大半であるガンジス川の沐浴撮影が、ちょっとした不覚で台無しになったことでした。
 2007年1月かねてから大きな夢を膨らませ、計画を立てていたインド撮影紀行は、当時NHKBS放送で放映した、クンブメーラの時期と重なる絶好の機会でもあったのです。クンブメーラとは3千万人ともいわれるヒンドゥー教徒が集まり、聖なるガンジス川で沐浴を行う大規模なヒンドゥー教の宗教行事・巡礼です。場所は4か所(ハリドワール、イラーハーバード、ナシク、ウッジャイン)で、3年毎に持ち回りで開催される。従ってそれぞれの場所では12年毎に開催されることになります。この年は丁度イラーハーバードでの開催で、直接その場所への撮影ではなく、ガンジス川のベナレスでの沐浴撮影がメインだったのです。
 ニューデリー駅から深夜8時間、満員電車で上下2段の座席寝台に同僚と、向かい席にはインド人二人、時々交わす話題も結構楽しかったのですが、結局一睡もできず真っ暗な中、沐浴が行われているガ―トに到着したのでした。ガンジス川の遥か彼方から、朝日が昇るまでの間、動力付きの小さな船で延々と続くガートでの沐浴風景は、想像以上に素晴らしく夢中でシャッターを切り続けていました。その情景は階段状に川の水際、更には水中へと老若男女が押し合い圧し合い、先を争うようにガンジスの神聖なる水を両手でくみ上げ、頭から身体全体にかぶります。また、何度も水中に顔を沈め祈りを捧げます。ヒンドゥー教徒の溢れんばかりのエネルギーが、目の前に展開されていました。この間、太陽は遥地平線に遠く、まだ薄暗い状態ではあるのですが、かえって太陽が輝く前のタイミングの方が、祈りの情景には合っているようでした。この間30~40分くらいの撮影でしたが、自分では十分な満足感に浸ったものでした。
 帰国後楽しみにしていた撮影データの編集作業を始めたのですが、何と日の出前の沐浴撮影全てにピント精度が甘く、使い物にならないことがわかり茫然自失状態となりました。ブレの理由は極めて初歩的なことで、小型ボート上での撮影は一脚を使用したのですが、ボートの揺れと振動を微妙に拾い、シャッター速度も露出が限界に近く、しっかりと確認のないまま現場の圧倒的な情景を前にして、興奮状態で撮りまくった愚かな自分がいたのでした。
この沐浴撮影が唯一の目的であったため、悔しさと情けなさで相当に落ち込んでしまい、自分を責め続けていました。代償があまりにも大きく一時撮影の気力さえ無くしていました。人間誰しもミスはあるものと自分に言い聞かせ、それ以降カメラの露出は全てシャッター優先で確認撮影する様になり、悔しくも忘れられない思い出となりました。

                           支部長 笹川芳信 2019.5 「はーもにか」304号



フォト徒然 ~その18~

                  
最後の鷹匠

 今まで数多くの被写体を求めカメラを向けてきましたが、振り返ると「知らない世界」への興味と探求心が、かなり強かったように思っています。中でも強く印象に残るのが「鷹匠(たかじょう)」との出会いでした。数年前、春まだ浅い多くの残雪がある山形県の田麦俣へ。ここで出会ったのが、大型のクマタカで狩猟を行う鷹匠「松原 英俊」氏でした。当日はクマタカが実際に狩りを行う撮影や、鷹と共にある生活の全てと、信念に裏付けられた生き方等、驚きの話を聞くことができ、素晴らしい一日となりました。実演では200M程先に野鳥を放し、クマタカが瞬時に飛び立ち捕獲する一連の行動、その獲物を扱う様子など迫力あるシーンが目の前で展開されたのです。松原氏とクマタカが一体となり、絶妙な信頼関係を垣間見た瞬間でした。それと同時により一層私が興味を持ったのが、鷹匠松原英俊氏の40年間における壮絶な生き方でした。これは既に多くの資料が公開されており、松原氏に関するその一部を紹介したいと思います。

 松原英俊氏は1950年青森市に生まれ、慶応義塾大学文学部東洋史学専攻を卒業、山形県真室川町の鷹匠沓沢朝治氏に弟子入りし、1年後に独立。現在クマタカで猟を生業とする日本でただ一人の鷹匠です。登山キャリアも豊富で、国内3000メートル級の殆どを登り、1995年中国の未踏峰ギシリク・タークに山岳会の一員として登頂、また、単独でペルーの4000メートル級4峰にも登頂しているそうです。
 今日まで生涯の仕事にした鷹匠の魅力については、弟子時代の1年を含め、自分のクマタカがウサギを狩るまで4年半かかり、この時今迄の苦労が大きかった分、感動も大きく今でも一身同体にな
った鷹が、獲物に向かって飛んでいく後ろ姿を見ることは、最高の喜びといい全ての苦労が報われ
、自分にとってはかけがえのない唯一無二の仕事であるといいます。
 そしてまた、今迄の家庭のことや子息のこと、経済的な事情についても幾多の苦労を重ねてきたが
現実的な問題とも向き合いつつも、全て最優先事項は常に「鷹使い」として生きることであるといいます。
 その確固たる理想と信念に、現代に生きる「最後の鷹匠」として、稀有な存在であることは間違いないでしょう。私達に語り掛けるやさしい澄んだ眼には、クマタカにそそぐ愛情と同じ様に
清らかでした。
 次に山形県白鷹町で撮影したもう一つの鷹匠について紹介します。
 一般に鷹匠は鷹を飼育し訓練することを主な仕事としています。訓練された鷹はイベントでの活動
や、カラスやハトなどの有害な鳥などを、市街地から山へ追い返す仕事です。また空港ではバード
 ストライク防止することに、鷹匠の技術が役立っているそうです。
 白鷹町では「全国鷹狩り実演会in白鷹」として、荒砥小学校を会場に鷹狩り実演会が行われました。
 全国から7人の実演者が集まり「渡り」や「振り鳩」などを披露し、その技と鷹の舞いを撮影しました。中には女性の鷹匠や流派による演技など、小型のハヤブサがつかわれていましたが、日本古来の伝統調教でもあり、撮影にあたっては鷹匠の衣装やポーズが中心であり、厳かな中にも凛とした
雰囲気の漂う貴重なものでした。
 以上二つの機会を得て鷹匠の撮影を体験できたことは、私にとっては貴重なものでした。偶然も写真の大きな魅力の一つです。更なる未知への探求に心したいと思う昨今です。

 
                                   支部長 笹川 義信 2019.7 「はーもにか」305号



フォト徒然 ~その19~

                     異界の写真家


そのきっかけは1963年第11回二科賞の「デッド・シティ」でした。2枚のモノクロで、
1枚目は都市の橋の上を歩く妖怪人、2枚目も工場群の中の妖怪人。何とも異様なこの「妖怪」を
どの様にして撮ったのか?。当時は単純にその疑問だけで、深くは追求せずに忘れ去っていました。
2009年写真のテーマ探しに苦労していた頃、河北新報に「東北の精神に迫る」との写真展開催の記事があり、東北芸術工科大学の教授と学生の写真入りで紹介されていたのです。その教授がまぎれもなく、タイトル「異界の写真家」内藤正敏教授であり、二科賞受賞のその人だったのです。
早速行動に移しご本人がどのような経歴と業績をあげているのか、写真展に足を運び会話したことは勿論、興味津々のなか資料や実績そして撮影方法・考え方など探し求めたのでした。
 
以前から写真表現の手法として、深層心理、精神性、心象などを如何に表現できるものなのか・・。
偉そうなことを考えていた時期でもあり、その人となりを何とか参考にできたらと、生意気な自分
がいたのでした。でも調べていく内にとてつもない稀有な民族学者・写真家で、独自の実績と功績を残されていることを知り、また行動の大半が実体験に基づく写真表現へと繋がっていることを、改めて知らされたのです。その人となりや考え方などは、数多くの著書や写真展、インタビューなどで発表されていますが、私が一時期傾倒した日本でも異色な写真家の一端を以下に紹介します。

 1938年東京生まれで、大学時代化学を専攻後フリーの写真家となり、初期は宇宙・生命をテーマとした「SF写真」に取り組む。25歳で即身仏に出会ったことをきっかけに、羽黒山山伏の入峰
修行に入る。写真集「婆東北の民間信仰」「出羽三山と修験」「遠野物語」「東京都市の闇を幻視する」
等を発表、多数の研究書・論文を発表する民族学者でもある。
 
先に述べた二科賞作品も内藤正敏氏によれば、高校時代にソ連の科学者オパーリンの学説に影響を受けて、大学では応用化学を受けた。生命の起源は化学反応から起きたものという新しい考え方に衝撃を受けたという。自分にとって化学は世界の神秘を解読するための方法の一つであると。
二科賞作品の技術で「コアセルベーション」とは、ガラス版の上に高分子物資と有機溶剤を垂らし、化学反応を起こした状態を接写したもの、生命の起源に関連する現象であり、日々夜を徹して偶然と即興の成せる技に没頭したとのことです。
一方民俗学者としてはその後、山形県・湯殿山麓での即身仏との出会いをきっかけに、60年代~90年代にかけて、主に東北地方で民間信仰の現場に取材した、「婆バクハツ!」「遠野物語」など
刺激的な写真シリーズを次々と発表しました。また自らの写真に触発された民俗学研究も手がけ、
東北と江戸・東京、化学と宗教といった異質のテーマを交差させ、日本文化の隠された思想体系を
発表してきました。「モノの本質を幻視できる呪具」である写真と、見えない世界を視るための「もう一つのカメラ」である民俗学を手段として、現生の向こう側に幻のように浮かび上がる「異界」を
発見する人。あの「アラーキー」こと荒木経惟をも師と言わせるほど・・・すなわち異界の写真家と言われる所以です。          
                        支部長 笹川 義信 2019.9  「はーもにか」 306号



フォト徒然 ~その20~(完)

            鹿踊りに魅せられて

  現役の頃、盛岡に5年の単身赴任生活を送ったのですが、当時社員の仲間から、遠野・一関
・北上の各市に、盛んに行われていた鹿踊りや鬼剣舞を紹介され、何度か撮影に通う内に、この東北地方で郷土の宝でもある勇壮で華麗な、全国的にも貴重な民族芸能を、何とか自分の作品として残したいとの思いが、強く湧いていたことを思い出します。
そもそも「ししおどり」とは、岩手県南に伝わる太鼓系の「鹿踊」と、遠野・県北に伝わる幕踊系の「獅子踊」があり、前者は囃子が無く各踊り手が歌を歌い、太鼓を打ち鳴らしながら、ササラ竹を背負い獅子頭をいただいて踊ります。後者は多数の太鼓と囃子が後ろに構えます。由来は諸説ありますが「シシ」とは古語で野獣の肉のことで、鹿踊りには人が食べ物としてその命をいただくシシへの供養の意味が込められています。

 撮影にあたり以前は特にテーマを意識せず、イベントや祭りを中心に記録していたのですが、数年前から、写真展やアルバムに纏めることを念頭に、いわゆる作品作りに意を注いだのです。その為には何とか踊りの関係者へのアプローチと、踊りの内面に踏み込むことで、内容のある作品を作りたいとの思いが強くなりました。そのきっかけと人間関係の大切さを知った2つの例を紹介します。

① 2015年2月第3回国連防災世界会議の直前イベント「ひとのちから」が、せんだいメディアテークで開催。知人の紹介でトークひとのちから・踊りのちから「金津流石関獅子躍」を最前列で激写したのです。この時の安部 靖さんと女性の清水 忍さんの熱の入った説明が、私の鹿踊りに対する認識の甘さと共に、その奥深さを探求すべくすぐさま行動に移していったのです。
 早速このイベントの直後、江刺市の熊野神社での奉納に馳せ参じ、仙台でのイベントの思い出を
混ぜながら、地元の女性記者も交え親しく撮影が進んだのでした。以降種山高原、江刺藤原の郷、
詩歌の森公園等々再三の公演機会に参加し、最も儀礼を重んじる流派の撮影に成功しました。

➁ 2017年10月「What’sシシオドリ?」in 釜石橋野 をテーマに、主に外国人に体験してもらうイベントが、釜石市橋野町で行われました。これは岩手県が力を入れている、訪日外国人向け伝統文化鑑賞・体験プログラム開発事業の一環として行われました。実際にこの企画をプロデュースしたのが小岩秀太郎氏で、この方は全日本郷土芸能協会のメンバーで、縦糸横糸合同会社(仙台市)を立ち上げ、郷土芸能を調査し、芸能団体間のネットワークを育む仕事をされています。私は以前から存じ上げており、今回もまさにこの方ではの好企画で、当日も親しく会話と撮影ができたのでした。外国の参加者は主に学生さんが多く、参加団体の東禅寺しし踊り、橋野鹿踊り、臼澤鹿子踊と共に実技と指導で、和気あいあいの楽しくも思い出の残る最高の1日となりました。

 2018年3月、私としては恐らく最後だろうとの思いで写真展「鬼が舞い鹿子が踊る)を開催出来ました。過去数多くの鹿子踊りの撮影行脚を重ねてきましたが、現代社会の文化芸能が多様化する中で、郷土芸能・民族芸能が後継者不足との囁く声も聴きますが、どっこいまだまだその存在価値が見直され、そして再発見されています。今後の更なる隆盛を期待する一人です。      


                       支部長 笹川 義信 2019.11 「はーもにか」307号





 長い間ご愛読ありがとうございました。今回はこの辺でしばらくの間休憩するとのことです。
 機会があれば是非続編をお願いしたいものです。

                         編集責任者 Deer